信濃の由来

信濃という言葉はどこから来たのでしょう。私たちの県は長野県という県名を持ちながら、信濃、信州と呼ばれています。信濃はいつから使われていたのでしょう。

8世紀に書かれた「古事記」には、科野国と記名されています。江戸時代に出された「信濃地名考」には、賀茂真淵の説として、「信濃国いにしえ科野と書く。その地名には科のこと多く見ゆ。山国にて階坂(しなさか)あれば地の名となりけむ。」と記されています。その記述の通り、県内には埴科・倉科・仁科・明科・蓼科など科がつく地名が数多くあります。階坂(科坂)はけわしい峠をさすものとされ、古代には碓日坂(碓氷峠、現在の入山(いりやま)峠)、神の御坂(みさか)(御坂峠)、県(あがた)坂(木曽の鳥居峠)などと呼ばれ、当時は峠とは言わず「坂」と言われていました。信州ではひとつの盆地から他の盆地に行くには川沿いの道を通る以外、必ず峠を越えなくてはならず、山国である信州には500以上も峠があると言われています。科(しな)は科の木をさし、古代信濃には科の木が多く自生し、その樹皮を使って布や縄、牛馬の手綱に使う綱などが作られていました。今でもアイヌの人たちは、アッシ織といって科布を織っていますし、長野県では旧安曇村の川上さんという方が最近まで科布を織っていたそうです。

  • 科の木(シナノキ科シナノキ属の落葉高木)

川中島合戦は北信濃に住む人々に大きな影響を与えました。当時の科野国は、8世紀に入ると信濃国と書かれるようになり、信濃国の国府や国分寺は上田に置かれてました。奈良時代国府は松本に移され、中世信濃守護小笠原氏の時代には信府と呼ばれるようになります。信府とは甲府や駿府と同じく国府があったことを示す地名です。現在信府の呼び名が使われていないのは残念なことですね。

では、長野県という名はいつから使われるようになったのでしょうか。江戸時代長野の町は善光寺町と呼ばれていましたが、正式には「長野村」でした。今も上長野・下長野・袖長野などの字名が残っています。地名はもともと地形の形状から名付けられることが多く、長野という地名は扇状地の緩斜面などに使われることが多いそうです。

長野に中野から県庁が移されたのは明治3年(1870)のことでした。この結果、東北信の佐久・小県・更科・埴科・水内・高井の六郡を領域とする長野県が誕生し、一方松本には中南信の諏訪・伊那・筑摩・安曇の4郡と、飛騨地方の大野・益田(ました)・吉城(よしき)3郡を領域とする筑摩県が置かれました。その後明治9年(1876)、筑摩県庁が火災で焼失したことで、長野県に中南信の4郡を加え、飛騨3郡を岐阜県に合併することになったのです。以来、長野という善光寺町の地名が信濃国全域に及び、長野県の領域は信濃国と一致することになりました。その後昭和32年(1958)神坂村の湯舟沢地籍が岐阜県に合併したり、平成17年(2005)木曽郡山口村が岐阜県中津川市に合併するなど動きもありました。

長野県は、南北約212キロに渡る長い距離があり、地域文化も大きく異なっているため、南北の地域間対立が激しく続きました。県下を2分するという分県論、県庁を松本に移すという移庁論は長い間続いてきました。そのために長野という名を使わず、信濃という名が多く使われるようになったと考えられます。県歌は「信濃国」、信濃教育会、信州大学、信州博覧会など、信濃・信州は広く使われています。信濃・信州は律令国家の国名が今に生きており、また県の成立にまつわる歴史的背景のもとに生まれた呼び名と言えます。

参考文献

  • 市川健夫著 「信州学ノート-日本の屋根の風土学-」 1994年発行 信濃教育会出版部