須坂の歴史と町並み

町の成り立ち

須坂町の礎は須田氏により築かれたとも言われています。中世に臥竜山に山城を築いた須田氏との関係で臥竜山の麓には館があり、館を中心とした町が形成されたという推論にもとづきます。その後須田氏は徐々に在地性を失い、江戸初期にかけての交通の発達が臥竜山周辺の小山の「町」よりも地理的に恵まれた須坂の集落の発展を促したと考えられています。

須坂は松川と市川(百々川)の二つの谷から下ってくる道が交差するところに発達した集落です。
善光寺平の千曲川の東部を南北に貫く谷街道(須坂―中野―飯山)と上州方面に通ずる大笹街道(仁礼街道)、草津街道(山田道)の分岐するのが中町の辻。そこに発生した商業集落が須坂の町のはじまりです。

製糸業

須坂は「糸の町」といわれますが、江戸時代末期までは木綿商や穀物商、油絞り商が副業として手繰りや座繰りで行う程度でした。
明治維新前後から生糸の輸出が盛んになり、須坂でも明治6年(1873)頃には、江戸時代から搾油や精米に利用していた水車を動力に用いて器械製糸が行われ始めます。
輸出の増加に伴い、生糸の品質向上やまとまった出荷量などの条件が求められ、小規模な製糸工場が集まって作られた製糸結社「東行社」が設立されました。
明治17年には「俊明社」が設立し、製糸結社は長野県の製糸業界の主流になっていきました。

須坂の製糸業が全盛の大正時代には工女たちは須坂全体6千人を超えていました。工女たちは一日の労働が終わると、菓子屋、下駄屋、呉服店などへ出かけ、賑わいの町として発展しました。

町並み

須坂は明治から昭和初期にかけて、製糸業で大いに栄えました。今も当時の繁栄を伝える蔵づくりの建物が数多く残ります。
中町にある「中町の辻」は「大笹街道」と「谷街道」が交差する交通の要衝であり、中町の辻を中心に十字の町並みが形成されました。

須坂地区の旧街道に沿ってたつ建物は、土蔵造りを基本としながらも、表に平面を向けるものと、妻面を向けるものが混在し、特徴的な町並みが景観を豊かなものとしています。

町並み(平入り妻入り)

町並み(平入り妻入り)

建物

須坂地区の民家は、主屋が独立してたつ「主屋」、店舗と主屋がそれぞれ独立してたつ「店舗・主屋」、店舗部分と主屋部分が一体でたつ「店舗兼主屋」、の三つに分けることができます。
道路に面して建つものは、平入りと妻入りが混在します。
街道沿いは間口が狭く奥に長い敷地が多いため、生活の場が奥への広がりをみせます。

明治から昭和初期にかけて近代製糸業によって繁栄し、今も豪壮な土蔵造りの旧製糸家建物や繁盛した大壁造りの商家などの町並みが残され、当時を偲ぶことができます。

水車には穀物を挽いて粉にするための動力として、菜種油を搾る動力として、製糸業に関わる器械製糸のための動力としてなど様々な用途がありました。

  • 土蔵

  • 水車小屋

工作物

須坂の町中を歩いていると、ぼたもちのような丸々とした石によって組まれた石積みを見かけます。建築物や塀の基礎、水路や敷地の境界など、地区内の様々な場所で目にすることができます。
現在は職人の減少や大きな石を調達することも困難になり、新築されることはなくなってしまったため、一度解体してしまえば再建することが困難となっています。

ぼたもち石積み

ぼたもち石積み

店舗と門は、須坂地区の歴史的な町並みの景観形成において最も重要な役割を担っています。
須坂地区の旧街道に面した店舗には付属して門が構えられているものが多数見られます。こうした屋敷地では店舗の奥に(または続いて)主屋を配すことが多く、店舗へは表の道(街道)から入り、主屋へは屋敷地の脇に設けた門を潜り、外通路を通って入ります。
屋敷地の表と奥が建物内部の通り土間ではなく、外通路を介してつながり、街道に面して店舗、門、店舗、門と連なる姿は須坂地区の特徴的な景観です。

門

環境物件

道路に面して家が並んでいますが、その裏を流れる用水のことを須坂では「裏川用水」と呼んでいます。江戸時代に搾油や精米に水車が使われていたことや、裏川用水はどこでも水車動力が取れるという条件があったからこそ、器械製糸の発展、その後の製糸業の町へとつながっていきました。

旧小田切家裏川用水

旧小田切家裏川用水